2006/09/05 第2号 杉原千畝(ちうね)氏

今日は、ある歴史的偉業を成し遂げたにもかかわらず、私が長らく誤解していたために、さほど興味をもっていなかった方を紹介しようと思います。

皆様、シンドラーのリストという映画はご存知でしょうか?

今回ご紹介するのは、そのシンドラーご本人ではなく、日本のシンドラーと言われる杉原千畝(ちうね)氏です。

ナチスドイツの支配下で、ユダヤ人は多くの人が命を失いました。

そのユダヤ人を6000人も救ったということで、称えられている方です。

どういう状況下で6000人の命を救ったか?

それを知りもしないで、私は杉原氏にそれほど関心もなく、それほど尊敬もしていなかったわけです。

杉原氏は外務省の外交官でした。

1939年、ヨーロッパ中が、第二次世界大戦に突入しようとしているそんな時、リトアニアへの赴任が決定したのです。

リトアニアといえば、バルト三国の一つですね。

その頃のリトアニアは、ドイツとソ連の間にはさまれ、政情不安定な国でした。

リトアニアは、ナチスから国を守るため、ソ連と同盟を結びます。

ソ連軍は、リトアニアを併合し、各国の在リトアニア大使館・領事館に閉鎖を求めました。

しかし、日本領事館はまだ、業務を続けていたのです。

そして、1940年、7月18日。

朝食後、仕事部屋に向かおうとした杉原氏が見たものは・・・・

領事館の周囲を取り囲む、たくさんのユダヤ人だったのです。

彼らは、ポーランドからユダヤの手を逃れ、ここリトアニアに到着し、外国へ逃げるために、業務を続けていた日本領事館に殺到し、日本通過のビザを要求してきました。

しかし、日本はすでに、ドイツを協定を結んでおり、日本領事館がユダヤ人へビザを発行するということは敵対行為にもなります。

数日後、日本領事館を取りまくユダヤ人の数は、何千人にもなり、鉄柵の外で叫び声を上げるもの、柵を乗り越えようとするもの、使用人が買い物のために外に出ようとすると、なだれ込んでくる人々・・・・。

杉原一家は、家から一歩も出ることが出来なくなってしまいました。

罪のない人々が迫害にあい、殺されていくのを、黙ってみているわけにはいきません。

杉原氏は、代表者を選んで、彼らの主張を聞くことにします。

そして日本政府に、ビザ発給の許可を求めます。

2日後、杉原氏が受け取ったのは、「NO」の返事でした。

その頃、杉原家には三男が生まれたばかりでしたが、妻、幸子の母乳は過度のストレスと食料不足により出なくなり、粉ミルクも底をつきます。

泣き止まない赤ん坊を抱え、一家は疲れ果て、眠れぬ夜を過ごしていました。

7月30日。

千畝は思い切って、妻、幸子に言います。

「振り切って、外国に出てしまえば、それだけのことなんだ」

事実、ソ連から大使館・領事館に対して、退去勧告が出ていたわけですから、それは当然なわけです。

ただ、妻、幸子は知っていました。

夫が、心からその言葉を発したわけではないことを。

「これだけの人たちを置いて、私たちだけが逃げるなんて、絶対にできません」

その答えに、千畝はほっとした笑顔を浮かべ、妻 幸子も安からな気持ちになったといいます。

人々が自分のことしか考えず、異常な精神状態になる戦時下で、なんということでしょうか。

自分たちの命も危ないというのに、人の命、それも数人ではなく、何千人という人の命を助けようとしているのです。

これこそ、狂気としか言いようがありません。

決意した杉原氏は、3度目の電報を日本の本省に打ちます。

しかし、返ってきた返事は、やはり、「NO」でした。

そして、杉原氏は、最後の決断をします。

「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」

「後がどうなるか分かりませんが、そうしてあげてください」

夫と妻の心は、一つでした。

8月1日。

まだ夜も明けぬうち、杉原氏は表に出て宣言しました。

「ビザを発行する」

一瞬のどよめきの後、どよめきが走りました。

抱き合って、キスしあうもの、天に向かって感謝をささげ、祈るもの・・・・

こうして、ビザの発行が始まったのです。

リトアニアの領事館は、本来、ソ連の情報収集を目的に設置されていたものなので、ビザ発給のための設備は、とぼしいものでした。

用紙も少なく、名前も手書きが必要でした。

杉原氏は、一人一人の名前を間違わないように神経を遣いながら、昼食もとらずに必死でビザを書きつづけたのです。

睡眠不足で目は充血し、やせてしまい、顔つきまで変わってしまいました。

1日が終ると手は痛くて動かなくなり、そのままベッドに倒れこむ。

そんな毎日でした。

途中から手間を省くため、ビザ発行枚数の記録も、発行手数料の徴収もやめてしまいました。

8月も終わりを迎える頃、杉原氏はつぶやきました。

「もう、打ち切ろうか」

すると、妻幸子は言いました。

「もう少し頑張って、一人でも多くを助けましょう」

千畝は微笑んで、うなづきました。

しかし、ついに、ソ連から強制退去の勧告が下り、一家は、領事館を後にしなければならなくなります。

後ろ髪をひかれる思いで領事館を後にした一家ですが、余りの疲労に、杉原氏は汽車の長旅に耐えられるような状態ではなく、一時ホテル・メトロポリタンに非難します。

そして、そこでも杉原氏はビザに代わる許可証を発行し続けるのです。

9月1日、早朝。

ベルリン行きの電車が発車する直前まで、窓から身を投げ出して許可証を出しつづけました。

電車が動き出すと、杉原氏はホームのユダヤ人達に深々と頭を下げ、言いました。

「許してください。私にはもう書けない。皆さんのご無事を祈っています」

列車と並んで泣きながら走ってきた人達は、杉原家が見えなくなるまで手を振って叫びました。

「スギハァラ! 私達はあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」

その後、リトアニアを後にした杉原家も、決して平安な状況ではなく、転勤先のルーマニアで兵隊に銃を突きつけられたり、敗戦後、ソ連軍に軟禁されたり、日本にやっと戻った後は、外務省からの解雇宣告、7歳の三男の死・・・・と、波乱に満ちた日々でした。

後日談は様々ありますが、28年後、杉原氏はイスラエル政府から日本人としてはじめて、ヤド・バシェム賞を受け、諸国民の中の正義の人と認められます。

でも、おそらく、杉原氏が嬉しかったのは、そうした勲章ではなく、自分の発給したビザで、生き残っている人がいる、という事実ではなかったでしょうか。

本来、公務員というのは、人民の為に尽くすものであり、公務員でなくてもそうあるべきです。

妻、幸子氏も言っています。

「人と人との絆は、当たり前の人間としての行動から生まれる」

この当たり前の人間としての行動が、我々は出来なくなっています。

杉原氏のこの偉大な功績は、杉原氏だけではなく、妻、幸子氏の功績も大きかったと思います。

ご夫婦がどういう教育を受け、どういう家庭環境で育ったかという資料はそれほど多くありませんが、機会があれば、書籍等も出ておりますので、ぜひ、読んでみてください。

DVD    http://mooo.jp/sgjv

書籍    http://mooo.jp/a2uf

新書版 http://mooo.jp/gjy4

まんが版  http://mooo.jp/4x6q

杉原氏をめぐる歴史的事実等の把握は、リンクもたくさんあるこちらが便利と思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D

身近な中でも、消防士やレスキュー隊など、危険な場所に自ら出向いて、人の命を助けている職業の方々もいらっしゃるわけですから、本当に頭が下がります。

見回すと、見習うべきことは本当に多いですね!

協力 東京教育研究会 http://www.pinpon.co.jp